覚せい剤とクリエイター



槇原敬之さんが最近覚醒剤の使用で再逮捕された。


ASKAさんもしかりで、


好きなミュージシャンが覚醒剤に汚染され、


その素晴らしい作品にも影を落としてしまったのは残念極まりない。


好きな曲だったので今でもたまに聴くことがあるが、


以前のように純粋にその魅力に浸かれないのはファンとして本当に悔しい。



最近妻がピアノを習っていて、


アメリカの音大での学びの経験を持つその先生が近頃のミュージシャンたちの覚せい剤事件について、


このような話をしてくれたらしい。



「音楽的に特に正式な教育や勉強をしていない彼らは自分の感受性や経験を頼りに詩を書き、


感情の浮き沈みを基にしメロディーを書いている。


経験は消費され、感受性は年齢とともに鈍り、擦り切れる。


感情は歳をとってくると老化し、起伏が減少する。


理論で作品作りをしていない彼らは頼みの「経験と感情」を消費すると、後に作品が書けないスランプに陥る。


そこでつい薬にすがってしまうのだ。」という。



覚せい剤を売っている人たちがいなければ、


そもそも事件は起こらないのだが、それはさておき


「経験と感情でものを作る」ということに僕は深く納得が行き、


そのことについて最近よく思いめぐらすのだ。



実は「聖樹のパン」言う漫画を描く以前、僕は深いスランプに陥っていた。


その後運良く「パン」と言う素材と出会い、「聖樹のパン」と言う作品にたどり着くのだが、


この作品は取材を元に書いている。


取材した先でもらったパン屋さんの言葉や、業者さんの言葉を軸に物語を作っているわけだ。


僕にとってこの新しい技法を手に入れるまでに非常に長い時間と苦労があったわけだが、


このテクニックを手に入れてしまったらストーリーを描くと言う作業が以前ほど苦では無くなった。


ネタが尽きた、セリフが書けないとなれば知り合いのパン屋さんまで出掛けて行ったり


業者さんや博識な方々に電話をしたりして人々の言葉を収集すれば良いのだ。


それでコマはどんどん埋まってゆく。



「楽をしている」と言うなかれ。

 

 

そこにたどり着くまでに地獄を見ているのだ。




この技法を手に入れる以前はストーリーができない、アイディアが浮かばない、


セリフが出てこないと言っては苦悶し、床をのたうちまわっていた。


要するに“経験や感情”を頼りに物語を書いていたわけだ。


経験や感情を頼りに物語を書くならばベテランよりも、


感受性が新鮮で豊かな若手作家の方が良い。


彼らの方が原稿料も安いし作品が新鮮なので出版社としては絶対にそっちに仕事の依頼をするというわけだ。


つまりあの頃の僕は「作家として価値がなくなっていた」と言うことなのだ。



経験や感情を頼りに物語を書くことには必ず限界がくるし、そうした時に作家は行き詰まる。


その時に新たな方法論を見出せないアーティストは消えていくか、禁じ手に手を出してしまうかもしれない。


最近水彩画を描いている。



Yahoo!オークションで2019年春に始めた原画販売がお陰様で好評で、



僕の新しいビジネスとして今『聖樹のパン』に次ぐ我が家の大事な収入の柱となっている。

     


話を戻すが、



“イラスト描き山花典之”は今のところ行き詰っていない。


まだ作品数が少ないと言うことが大きいかもしれないが、幸い今のところは行き詰まっていない。


同じアーティストでもシンガーソングライターは覚せい剤に手を出す人がいるが、


シンガーと呼ばれる人で覚せい剤に手を出す人はそれほどいないのではないだろうか?


イラストを描いていて思うのだが、


絵描きとシンガーは似ている  と凄く感じる。



絵描きやシンガーは「表現者」であって、


漫画家や小説家、脚本家、ソングライターは「クリエイター」であると言うことだ。


両方の立場を知っている僕の実感として、
表現者とクリエイターではプレッシャーに雲泥の差がある。


だからといって薬に手を出すことを肯定するわけにはいかない。


どのような形にせよクリエイターが消えていく事を同業者としてとても残念に思う。


槇原さんやASKAさん程の偉大なアーティストに僕が意見するわけではない。

 

 

行き詰まって苦しんでいる僕よりも若いクリエイター達に言うのだ。

 

 

行き詰まっているクリエーターはそれは

 

 

感情と経験が枯渇し行き詰まっているんだと言う現状に気が付いてほしい。




見出さなければならないのは新たな感情の糸口ではなく、新たな作品作りの方法論なのだ。






















すふ